紫斑病性腎炎
HOME戻る
(2002/9/2 update)

長介(仮名)は、血管性紫斑病が治った後も、紫斑病性腎炎が慢性化し現在も経過観察中です。

血管性紫斑病その1の場合

長介は最初の紫斑病の時も腎炎を併発した。この時は、入院中に微量の蛋白とそこそこの血尿であった。検査値は残念ながら記憶にない。
退院後、蛋白はマイナスになったが微量の血尿(赤血球数20前後)が続く。しかし、特に心配ないということで、運動制限も食事制限もなかった。紫斑病性腎炎は何にもしなくても半年くらいで治るという説明であった。
そして、説明通り退院から半年後に血尿もマイナスとなり、紫斑病性腎炎は完治した。


血管性紫斑病その2の場合(慢性腎炎へ)

長介は2回目の紫斑病の時も腎炎を併発した。

入院中 (1998年8月15日血管性紫斑病再発〜1998年11月24日退院)
入院中は定期的に医師の説明を聞くが、その時のメモが少し残っている。

1998年9月16日(水)...再発から1ヶ月後
 ・ 蛋白尿 約 0.5g/day

1998年9月21日(月)
 ・ 蛋白尿と血尿があるので、紫斑病性腎炎である。
 ・ 蛋白尿がいつ頃消えるかはわからない。
 ・ 薬(ステロイド)を使っているが、尿所見には影響しない。

1998年9月23日(水)...ナースの話
 ・ 蛋白尿が少しづつ増えてきている。

1998年9月24日(木)
 ・ 蛋白尿が増えてきている。
 ・ 蛋白は一時g単位で出ていたが、今は0.6g/dayくらい。
 ・ ブレドニンをやめたので、これで再発せずに蛋白が減少傾向になれば外来でもよい。

1998年9月28日(月)...発熱後
 ・ 蛋白尿 強陽性
 ・ 腎炎は統計的にはほとんどがよくなるが、ごくたまにネフローゼになることもある。
 ・ むくみもないので様子を見る。

1998年9月30日(水)...紫斑
 ・ 蛋白尿が(4+)から(2+)に減ってきている。

1998年10月1日(木)...紫斑増
 ・ 蛋白尿 約 0.5g/day

1998年10月5日(月)
 ・ 尿所見は変化なし。
 ・ 腎炎が心配である。

1998年10月7日(水)
 ・ 蛋白尿は(2+)で横ばい。
 ・ 一昨日の蛋白尿 約 0.3g/day

1998年10月12日(月)...試験外泊後
 ・ 朝の蛋白尿(4+)
 ・ 1g/day くらいあると退院はできない。

1998年10月15日(木)
 ・ 蛋白尿 約 0.4g/day

1998年10月19日(月)...試験外泊後
 ・ 蛋白尿 悪い
 ・ 喘息の発作によるものかもしれない。

1998年10月26日(月)...発熱後
 ・ 今まで熱が出ると蛋白尿が増えたが、今回は増えていない。
 ・ 何度か試験外泊で蛋白尿の様子を見てから退院。

1998年10月28日(水)...発熱
 ・ 蛋白尿は増えたり減ったり。
 ・ 熱が下がったら試験外泊。よければ退院。

1998年11月2日(月)...紫斑
 ・ 蛋白尿 変化なし

この後、退院の日までのメモはない。入院中の詳細については「血管性紫斑病 その2」参照。


退院後の経過
(1998年11月24日退院〜1999年4月頃まで)


1998年11月27日(金)、退院して最初の外来で退院直前の蛋白尿が1992mg/dayであったことを聞かされる。これまでで一番多い量であったそうだ。その後の蛋白尿は次の通りであった。

日付 蛋白尿(mg/day)
1998/12/4 1574
1998/12/25 1224
1999/2/26 446
1999/4/2 930

約2ヶ月に1回の蓄尿検査で、腎生検をして組織を見た方がよいという話は何度も出ていた。しかし、そのためには設備の整った別の病院へ行かねばならず、紫斑病の方も落ち着いていなかったので、具体的にどうこうということにはならなかったのだ。数値も減少傾向にあるので、E先生も「もう少し様子をみても...」という考えがあったのかもしれない。
しかし、 1999年4月2日930mg/dayという結果で、ついに腎生検をすることになった。検査をする病院は好きなところでよいと言われたが、どこでできるのかもわからない。そこで、3ヶ所ほど紹介してもらった。その中のひとつの大学病院はE先生がよく知っているところで、都合がよさそうな感じではあったのだが、なにせ遠い。電車を乗り継いで1時間くらいかかるし、車では渋滞でさらに時間がかかりそうである。この時、私のお腹には三太がいて7月に出産を控えていたこともあり、E先生の薦めはあったのだがやめた。結局、一番近くて車で通院しやすそうな場所にあるK病院にすることにした。ここは、小児専門で腎臓内科もあり、生体移植なども行っている設備の整った病院である。
しかし、E先生から直接K病院の方へ依頼してくれるのかと思ったらそうではなかった。自分で受診を申し込んで行くのである。そこで、電話で腎臓内科の予約を取り、E先生の紹介状を持ってK病院を受診したのが1999年4月15日であった。

腎生検?

K病院は完全予約制である。しかし、同じ予約枠にたくさんの患者がいて時間通りには呼ばれない。9時の予約でも診察は11時頃だったりする。
初回は、長介の成長の様子などかなり細かい問診票を書かされた。担当医は比較的若かったように思う。紹介状に目を通すと、
「大変な目に会いましたね」
と言われたのを覚えている。紫斑病の経緯などを聞かれ、確かに紫斑病性腎炎であることが確認できると、この腎炎は放置しても自然治癒する場合も多いので、今までの検査結果はあるが、K病院でも一通りの検査をして、本当に腎生検をするかどうか決めましょう、ということになった。
検査の内容は、血液検査に腎エコー、それに蓄尿による蛋白尿を2回分である。ゴールデンウィーク明けまでに、検査のため3回ほど通った。朝は夫に車で送ってもらい、2時間くらい待ってやっと診察。そして、次の予約を取って、帰りはタクシーでそのまま学校へ送っていく。学校へ着くのはだいたい4時限目か給食の時間だった。
そして、1999年6月3日に、全ての検査結果が出ての診察となった。結果は、血液検査で腎機能が少し落ちているが気にする程ではない。腎エコーは異常なし。2回の蓄尿は420mg/day490mg/dayであった。ステロイドパルス等の治療のボーダーラインが500mg/dayくらいからとのことで、非常に微妙なところである。担当医が言うには、蛋白尿は減少傾向にあるので、このままどんどん減少して自然治癒する可能性もある。検査にはリスクもあるし、今、検査をしても治療が必要であるという結果にならない可能性が高い。もし、将来、蛋白が増えてくるようなことがあれば、その時はどちらにしても、もう一度腎生検をしなければならないし、それだったら今はもう少し様子をみてもいいのではないか、ということであった。
それに、三太を妊娠中の私はかなり大きなお腹をしていたので、出産が近くなると何が起こるかわからないし、この時期に長介の腎生検をしなくてすめばその方が都合もよかった。それで、出産が終わって落ち着く秋頃まで様子を見ることにした。その間も市民病院には通院するわけだし、K病院へは、またあらためて予約を取って行くということで、一応この日でおしまいとなったのであった。診察室を出る時、担当医が
「出産、がんばって下さいね」
と言ってくれた。

経過観察へ

さて、その後、私は産休体制に入り時間も出来て、「小児科待合室」を開設したのがこの頃である。そして、無事に三太を出産した。産後しばらくは三太を連れて外出するわけにもいかず、市民病院の通院は夫が付き添っていたが、1999年9月17日には、久しぶりに私が付き添い、「長介通院日記」が始まることになる。
そして、結論先延ばしになっていた腎生検は、この頃には蛋白もかなり少なくなってきており、必要ないということに落ち着いたのであった。

しかし、 その後の蛋白尿のデータは検査結果を見てもらうとわかるのだが、長介の腎炎は安定した慢性腎炎となっていく。経緯は「長介通院日記」に詳しいので省略するが、とにかく最初の頃こそアンギナールという薬を飲んだり、多少の運動制限があったりしたが、それもなくなり、その後は尿検査をして経過を観察するだけというマンネリの日々を過ごす事となる。
同じ体験をされた方もいると思うが、マンネリ化した経過観察だけの日々というのは、けっこうストレスになるものである。「本当に何もしなくていいのか?」という不安が心をよぎる。そこで、2001年6月6日、たまたまインターネットで相談に応じてくれる腎臓専門医のホームページを見つけ、掲示板に相談を書き込んだのがきっかけで、セカンドオピニオンを得る事ができた。その結果、慢性腎炎への認識が深まり、穏やかに経過観察の日々を過ごす覚悟ができたのあった。

つづく


メール歓迎! 天間まで お気軽にどうぞ!