のぞきからくり
みんな海の中 対馬丸の記憶からからからくりのぞきからくり これよりいかなる物語 1944年7月7日に日本軍がサイパン島の戦いに敗れ、「サイパンの次は沖縄だ」ということで、政府は沖縄県のこどもたちを疎開させる指示を出しました。沖縄を離れることはいやでしたが、「大和へ行けば汽車に乗れる。雪も見られる。沖縄にないものを見ることができる」とこどもたちは修学旅行気分でした。 対馬丸は、8月21日の夕方、1788名を乗せ出航しました。ほかに疎開者を乗せた和浦(かずうら)丸、暁空(ぎょうくう)丸、護衛艦の宇治と蓮を含む計5隻の船団で、長崎を目指しました。しかし8月22日夜10時過ぎ、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け対馬丸は沈みました。対馬丸は古い貨物船で速度も遅く、潜水艦の格好の標的でした。多くの人々が船倉に取り残されまま沈みました。海に飛び込んだ人も高波にのまれ溺れました。竹のイカダなどにすがって漂流した人々も、力尽きて海の底に沈みました。生存者はわずか156人という大惨事でした。 一方、生き延びた人たちは、対馬丸撃沈のことを話すことが禁じられました。そのため沖縄に残された家族に本当のことが伝わりませんでした。対馬丸撃沈が広く知られるようになったのは戦後しばらく経ってからでした。それでも、犠牲者の家族たちの願いはかなわず、対馬丸の引き揚げはありませんでした。その代わり、2001年6月に「対馬丸記念館」の建設が決まりました。資料や証言の記録はインターネットの「対馬丸記念館」でも知ることもできます。 長崎を目指してたどり着けなかった対馬丸。長崎にたどり着いたのぞきからくり。何か因縁のようなものを感じます。のぞきからくり「みんな海の中 対馬丸の記憶」は、のぞきからくりを通して、忘れてはならない対馬丸の悲劇を知り、その記憶を人々記憶にとどめてほしいと祈るものです。 からからからくりのぞきからくり これにて『みんな海の中』はねました
参考:
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