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英語上達のコツ 第1回

Where there is a will,there is a way.(精神一到何事か成らざらん)


 私は昭和一桁生まれの戦中派。しかも、北陸の片田舎に育った人間です。まことに外国語とは縁の遠い所で、英語の環境に最も恵まれない時代に育った私が、巷に横文字の氾濫する時代に育っている現代っ子たちに、英語を教える破目になったのは、何という皮肉な運命のいたずらだろうと、いつもある種のうしろめたさを覚えています。多少の文学かぶれから国文学を勉強したかったのですが、文学をやりたいという私に、父は大喝していったものです。「文学をやるなどという余裕は、この家には微塵もない。女学校を卒業したら直ぐにでも働いてもらいたいところだが、そんなに勉強したいのなら、独身で一生働くつもりで英語をやりなさい。」

 英語を勉強することと一生独身でいくことと、どういうつながりがあるのかと、現代っ子たちなら不思議に思うに違いありませんが、私にとっては、勉強を続けさせてもらえるなら、他の条件はどうでもよかったのです。学者になりたいところを時代の流れで軍人になってしまった父でしたから、勉強を続けたいという気持ちには、理解を示してくれました。つい1、2年前までは、レインシューズを「雨靴」、レインコートを「雨合羽」と言わされていた戦後間もなくの頃でしたから、田舎の女学校の英語教育の実情は、想像以上にひどいもので、ローマ字で自分の名前が書ければよい方でした。しかも職業軍人の家庭は、無収入の悲惨な状態で、闇米のブローカーまでして、細々と勉強を続けました。もしもう一年早く生まれていて、女学校のまま否応なしに卒業させられていたら、英語とは全く縁もゆかりもない人になっていたことでしょう。ここでこうやって英語を教えるなどあり得ないことです。

 女学校の四年生を卒業した後、新制高校の二年生に横滑りをしたお陰で、勉強を続けることができました。「婚期が遅れる」と、友人の大半は卒業してしまい、十人足らずの小さなクラスでした。その後の勉強は話せば長い物語ですが、「辞書」と「山貞(山崎貞著)の文法書」が私のバイブルであったように記憶しています。一語一語の発音に注意を払う暇など毛頭なく、中学校(当時は男子共学が許されていませんでしたので男子校)の英語の水準に追いつくためには、手段を選ばずの勉強でした。

 「精神一到何事か成らざらん」が私の信奉するモットーでした。塩さえあれば生きていけると思っていたのか、小さな坐り机の端に猪口に塩を入れて置き、それをなめながら勉強していたのが、今ではむしろ懐かしい思い出です。アルファベットに毛の生えたような段階から、「イソップ物語」「スケッチブック」「若草物語」と読み進むのは、血のにじむような苦労でした。

 こうして二年後に、大阪外国語大学英語学科の初めての女子大生として大学の門をくぐった時には、得意の絶頂でした。高槻の工兵隊跡のあの薄汚い校舎ですら、私には、むしろ牧歌的な風情をたたえたものに思われたのです。でも私の英語の発音は、友人達の嘲笑の的となり、私が本を読めば、教室中に笑いのさざめきがおきたものです。「外国の言葉を正しく発音できないのが何がおかしいか。私の人格には何の関係もないことだ」と開き直ってみましたが、英語を専攻する者にとって、やはり内心穏やかではありません。シナリオを覚えて、弁当持ちで映画館に坐りこみ、朝から晩まで同じ映画を繰り返し見ました。戦後よくあった、戦争花嫁の恋文の代筆もしました。PXの売り子もやりました。なけなしのお金をはたいて、英会話学校(その頃は大層お粗末なもの)にも通いました。少しでも実用的に英語を使う機会があれば、恥も外聞もなく飛びこんで行きました。それでも私の心の奥底には、戦時中に叩き込まれた「日本人」としての誇りが疼いていて、英語を話すことを、どこかで拒否していたのです。