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英語上達のコツ 第2回

Teaching is learning.(負うた子に教えられる)

 教えるようになって初めて、自分の英語に責任を持たなければならないと悟った時、足のすくむ思いでした。何と安易な考えで英語を勉強してきたことか!徹底的に発音の基礎から勉強をやり直さなければならない。穴があったら入りたい程の恥ずかしさでした。

 「教師として大切な資質は何か」と、生徒たちに問いかけながら、「情熱」「公平」「実力」と黒板に書いた時、ある生徒が手を挙げて、「情熱があれば、実力もつきます。情熱だけで十分です」といってくれたのを鮮烈に覚えています。それは、救いの神の言葉として、自信をすっかりなくしていた私に大きな勇気を与えてくれました。「そうだ。私には情熱がある。今、生まれたばかりの教師として、絶えず新しい創意工夫をしながら一生教え続けよう。教えること、これこそ私の生き甲斐になるに違いない。たとえ英語の実力は乏しくとも、情熱を持って、生徒たちの捨て石となろう」と決心したのです。

 それから意を決して、大阪外大時代の恩師、マッキントッシュさんを京都の郊外の家に訪ねました。自分の英語に自信が持てなくて苦しんでいることを正直に告白して、英語の基礎発音の訓練をして欲しいと、お願いしてみました。学生時代の私を覚えていてくださって、快く引き受けてくださいました。テープレコーダー(当時は大変珍しい貴重な機械でした)を持って、週に一度先生のお宅まで通いました。それからというもの、赤ん坊になったつもりで先生の口の開け方を真似ながら、先生と自分の発音をテープに吹きこみ、家で何度も聞いて、出来る限り先生の発音に近づくように練習に練習を重ねました。

 その時の苦労が、その後小学6年生に英語の発音の訓練をする度に、甦って来ます。noはノーでなく[nou]である、tableはテーブルでなく[teibl]であると、いくら注意されても、ノーと[ou]の違いや、[ei]という二重母音はあってもエーという長母音は存在しないことがわからなければ、正確に発音することは出来ません。「自然の花」と「造花」とは違うように、どんなに訓練しても、母国語のようには発音できないのが当然なのです。

 一昨年、10カ月ばかりロンドンで暮らしてみて、イタリア人はイタリア人の英語を、アラブ人はアラブ人の英語を話しているのに気が付きました。個人個人の上手下手は別として、母国語の名残りが、必ずあるように感じられました。そうでなければ、その人は、もはや母国語を正しく発音出来ない程、土着化した人に違いありません。日本語を正しく発音出来なくなる程に、英語を正しく発音しなければならない理由がどこにあるのでしょう。少なくともcockney English(ロンドンの労働者階級の英語)よりは正しい英語を話し、教養のある相手には十分理解してもらえる英語を話せばよいのです。ドイツ人にしろ、フランス人にしろ、私がロンドン滞在中に出会った外国人は、母国語の訛を多少とも持って話していました。ただ、日本人との違いは、彼等はそのことに、少しもコンプレックスを持ってないということです。私たちも、コンプレックスを持つ必要はなく、堂々と日本人の英語を話せばよいのです。

 「日本人は、正しい英語を話しているのに、何故あんなに自信がないのか」と、しばしば外人に尋ねられました。本当に話したい内容があれば、表現力も自然に身につくものではないでしょうか。英語で何かを話すことよりも、話す何かをもつことの方が、ずっと大切だと痛感しました。もちろん、そうは言っても、伝達機能としての言葉を勉強する第一歩として、発音の訓練が必要なことは言うまでもありません。